共同親権について思うこと(その2)

法律

さて、前回ではオーストラリアでの離婚後の親権と養育費について、ちょっと話してみた。ここでは もっと詳しく話すことはしない。なぜなら、ググればそれらしき情報は、もう山程出ているようなので。まあググった内容が必ずしも正しくはなく、これって誤情報じゃんと思われるものもあるので、注意は必要であるが。

今日、私がここで書きたかったことは、共同親権の情報ではなく理屈ではわかっちゃいるが、でも割り切れない親の思いである。共同親権には100%賛成である。子供は両方の親に会う権利があるというのには疑う余地がない。でも、親も人間であり醜い心が渦を巻いている。子供の為ならと、理性が右の肩でささやきながらも、左の肩では元、パートナーへの不満、怒りがささやかれるのだ。

私の場合、離婚当時は共同親権がうまくいっていたと思う。それは単に、お互いが良好な関係を保てていたからだ思う。親同士の関係が良好であれば、意見の相違にも、妥協点を見出すこともそう困難ではなかったような気がする。しかし、段々と時が経ち、お互いの状況も変化し、子供の成長と共に、はじめの頃の良好な関係が保てなくなると、共同親権の負の側面が、ちらほら事あるごとに顔をのぞかせることが多かった。

例えば元、パートナーが再婚し、その新しいパートナーにも連れ子がいたりすると、今まで喜んで父親の家に行っていた我が子が、複雑な思いを抱えていることが垣間見えたりするようになった。子供も小学校の4,5年生くらいになれば、大人の事情を大人が思っている以上にわかっていたのかもしれない。子育てに関する諸々のことが、多少なりとも相手の新しい家族環境によって、今まではすんなり話し合いができていたことも、今までのようには解決できなくなることも多くなった。そして共同親権であるが故に、親である前に、一人の人間としての成熟度が試されたな〜とつくづく思う。どちらの親も人間として親として、成熟した大人であれば、共同親権はそれほど努力なしにうまくやっていけると思う。まあ、こんな親たちなら単独親権でもうまくいくのだろうが、子供のためにと言いながら、自分の主張を通そうとする親同士であれば、離婚後も大なり小なりバトル確定だったりする。すべてのバトルが悪い事だとは思わないが、結婚生活でバトルに疲れたから離婚したのに、離婚後もコレかよ!っと うんざりしたことが思い出される。

子供が高校生になったころ、共同親権による親のエゴの戦いに、なんとなく終止符が打たれた感じだ。今までは、去年のクリスマスホリデーは母親と過ごしたのだから、今年のクリスマスは父親家族と過ごす番とか、とにかくすべて平等、かわりばんこ的な取り決めであったが、さすがに高校生ともなれば、’クリスマス翌日からバイト忙しいんで、ランチはお父さんと一緒で、ディナーはお母さんとね`と子供が采配する立場になってきたからだ。そしてコレでいいのだと、いい意味で諦めがついた気がした。

共同親権とは、どれだけどっちの家で過ごすとか、養育費はどれだけ折半するのかということだけではない。要は両親が、子供の養育に責任を持ち、子供はどちらの親にも愛され守られながら成長するための必要な決め事を、共同で決めていきましょうというのが、私なりの解釈だ。理性でわかっちゃいるが現実は心がついていかない難しさがある。

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